わたしは三人姉妹の末っ子で、子どもの頃からなんとなく、扱いが軽いような気がしてならなかった。姉ふたりには習い事をいくつかさせて、わたしにはナッシング。姉ふたりには振袖を着せて成人式の写真を撮り(それも立派な台紙つき!)、姉ふたりには、姉ふたりには。
わたしに習い事をさせなかったのは、「させたところでどうこうなるもんじゃない」と悟ったのではないかと思う。振袖を着せなかったのは「着せたところでどうこうなるもんじゃない」と悟ったのだろう。なにをどうこうさせたかったのか、皆目見当がつかないのだが、きっとそうだったに違いないと、私が納得するしかない。
大人になりそれぞれが家を出て、自分の人生を歩み始めて、姉は姉、わたしはわたし、と折り合いがついた年頃に、ががびーんと新たなる真実がまたひとつ発覚。姉二人には、訪問着一枚、付け下げニ枚、小紋ニ枚、紬ニ枚、それに夏・冬の喪服を一揃え(当然それらに必要な帯、小物など一式)持たせてあげていたのだ。ががーん。またここでも出たか、「姉二人」!
「でも、おまえにも夏・冬の喪服を誂えてあるんだから、いいじゃない。私が死んだらそれを着て送るんだよ。」
母はそういうが、その台詞はちょっと酷ってもんです。そんな日は、一日でも遅くにきていただきたいと思うばかりです。
親というのは、子どもが生まれる前には産着やらおしめやらを、自分が死ぬときのことを考えそのとき娘が着る喪服まで、あらゆるものの準備をするものなのだね。それにひきかえ、子が親にしてあげることなんてほとんどないのに。
それはさておき、今回の帰省で、母親に浴衣をねだってみた。
「買うのもばかばかしいし、30過ぎた私が着るにはちょっと可愛いすぎる柄が多すぎるし、だからっていいものを着て人込みにも出て行きたくはないし」
そういって、母親の嫁入り道具の桐の箪笥をあけさせた。「浴衣なんてないねぇ」と言いながらも、長女の専門学校時代に作った浴衣が(またもや姉マター!)出てきた。これは、私も覚えていた柄で、今着れば野暮ったいのかもしれないが、普段に着倒す分には問題ないものだろう。
それをさっと抱え、図々しくも末娘は言う、「他にない?」と。
次に出てきたのは、母が30才の頃に作ったという浴衣。白い地に、藍色のレトロな柄の花が散ったもの。これは、私をお腹に宿したあたりに縫われた浴衣じゃないのかしら? それが真っ白な生地もそのままに、引き出しの中から、私に手渡されたときは、大事なものをもらってしまったという重さを感じた。
さらに、桃色の鮫小紋も頂戴した。小紋とは、全体に細かい型押しの柄が繰り返しついているもの。鮫小紋とは、その中でも、鮫の肌のように、小さな水玉が扇の形のようにして染められているもので、遠くから見ると無地に見える。これは、色無地と同じようにして着ることができ、ちょっとだけ格の高い着物。私に息子がいれば入学式に着ていくのだがっ、という類いの着物。
「これはもう、着る機会がない」と母ははっきりといった。
「でも、これは夏のものじゃないからね。秋になってから、きちんとした場所に、きちんと着ていきなよ。これはそういう着物だからね。」。
娘は、まさか、鮫小紋がこんなところで手に入るとは思わなかったので、驚きながら感謝した。いいの? こんなに綺麗な状態のものをもらっていいの? 八掛もこんなに色鮮やかなままだけど本当にいいの?
母は、織物系の着物にはあまり興味がなく、染め物が多いけれど、私はもう染め物には手を出さず、母のものを、そして育ち盛りの子どもがいる姉ふたりのものを(イッシッシ)を借りたり、譲ったりさせてもらうことにしましょう、と、決めました。
母親に新品をいろいろと揃えてもらうよりも、こうやって、箪笥の中身を少しずつ譲り受ける方が、私は、嬉しい。とても嬉しい。
夏至の夜
2003.06.22
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