染香は春着を註文してほっとした気もちと、これでまた借金が殖えちまったという重い気持と半々のようだ。(中略)はたからはこの際古もので間に合わせておけばいいのにと思うのだが、この世界の人はどうにも着物のことは気になるらしい。だから着物の値段には変な鈍感さがある。同じ金嵩でも着物の金嵩と他のものの金嵩とは違う。たとえば五万円として考えてみても、着物の五万はへっちゃらだけれど、鋸山事件を穏便に済ませようとしてきた五万は眼ひき袖ひきの大金なのである。そのうえ着物の金嵩も買うときは四五割がた廉く感じて買い、支払うときは高く感じて支払う。染香のような海千山千の古つわものでも着物を買うとなると、金額のことよりも着物そのものがえらく拡がって考えられ、金額のほうはつぼまって見えるらしい。けれども着物ができてきて着てしまうと、とたんに着物のほうはしぼんで金額は膨張して見えてくるのだからつらい。着物の値段は、芸妓を混沌とさせるもののようである。承知していて染香もひっかかるのだし、承知して呉服屋も儲けるのである。
−幸田文「流れる」より−
2004.01.27
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