群ようこ 「きもの365日」より
一緒に小唄を習っている青木奈緒さんも、きもの姿でいらしていた。(中略)
「今ね、三十代の若い女の人がブランドに飽きちゃって、『ちょっときものでも着ようかしら』っていう風潮になっているでしょう。あれってちょっとねぇ」
私も青木さんの意見に大賛成である。同じ意見の人がいたとうれしくなって、
「そうよね! あんたたちは繰りまわしとか、染め替えとか、知っているのかっていいたいわよね。きものというのは本来そういうものですもんね!」
と鼻息が荒くなった。着捨てるように、新しいものを洋服のようにとっかえひっかえ着ても意味がない。あるものをどのように繰りまわし、必要があったら仕立て直すのが、きもののいちばんの面白さなのだけど、物が豊富な時代に育ってしまい、親がそういうことに気遣いをしていなければ、ほとんどの若い人には理解できないことなのだろう。
これを読んで、少しだけむむ?と思ってしまった。
『三十代の若い女の人たちがブランドに飽きちゃって』というのは、『洋服に飽きちゃって』という言い方に変えても差し支えないでしょう。青木さんの『あれってちょっとねぇ』といいたくなる気持ちもわからないではありません。私なんぞはまさに『あれってちょっとねぇ』と言われるクチなんだろう。それに対する、群さんの『あんたたちは繰りまわしとか、染め替えとか・・・』という発言も、本当にそう口に出したい気持ちはわかるのですが、そのようなことは、これからキモノと深くつきあっていくうちに知ることではないでしょうか? そんな鼻息荒くしなくとも、とそのページに向かって、ちょっとため息をついてしまいました。
確かに今、キモノを着ている人たちの中で、ブームやファッションでなんとなく着ている人もいるだろうけど、一生着続けていくつもりで着ている人もたくさんいると思います。キモノを一枚買えば、古着でも少々のお値段がします。新品ならなおさらです。アンティークものが好きな人なら、先人の色やデザインのセンスを尊敬していることが多いでしょうし、伝統工芸と呼ばれるたっかい織物を愛する人たちは自分達がささやかなる文化のパトロンだと自負していると思います。一日キモノで過ごしたあと、脱ぎっぱなしにしておくだけの人は、まずいないと思います。どんなに狭い部屋でも、自分で手入れしてきれいにたたんでいることでしょう。
そうやってキモノと暮らしていくうちに、『繰り越し』とか『染め替え』というキモノとの長いつきあい方を自然と学んでいくのではないでしょうか?
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H嬢にもらった紬の名刺入れ。飲みにいくときは、この中にその夜の飲み予算と家の鍵だけ入れてでかけます。いいものですぞ、予算が決まっている自制心あふれる飲みというものは。 |
青木さんがあのようにいったあと、群ようこさんには、こう答えてほしかった。
「そうよね! でも、ああやってキモノを着たいと思う人が一人でも多く増えればいいじゃない。そうやっていくうちに、繰りまわしとか、染め替えとか知っていくといいわよね。きものというのは本来そういうものなんだし」
諸先輩方、あたくし(たち)は確かに若輩者です。キモノの世界は大変深うございます。ですが、とても好きになっている最中に、なんだかしょんぼりさせるような言葉を口にされるよりは、この素晴らしい文化を、親の着姿をあまり知らない、自発的にキモノを愛し始めた次世代にうまく伝えていくことにココロを砕いてほしいのです。私も、そういう狭いココロで物をみたりしないようにしますから、ねぇ。
2004.06.23
2005.05.01 追記。
この発言ですが、冷静に考えると、群ようこさんはまだいい。まだよいでしょう、裸一貫自分の足で立っている女性ですから。でも多くの着物ファンが読むであろうという本で、こういうことを書いたのは作家さんとして損だったのではないかと思います。もったいない。まぁそれがキャラクターなのかもしれないけれど。
というか、このもともとの発言をしたもう一人の方は、彼女のDNAを築き上げたバックボーンを台無しにしてしまったような気がしてなりませんです。
あぁ、発言には気をつけないとね。
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