きもの随想 馬場あき子 より
【久米島紬】
しっかりと織られたみごとな布−。それにしても、このいささか暗いと思わせる黒地の絣をみていると、原始の火の色そのままの赤い灯の色に浮かぶ土壁の家の内がわに、何とか調和的に営んできた生活というもののみょうな底力が、ある種の衝撃とともに感慨をよぶ。
(中略)
久米島はかつて琉球に所属した島であった。大島紬よりも古い歴史があるといわれるこの紬は、まるで紬の歴史の原点のような位置を保ちながら、その絣模様は細やかで、繊細と優雅の気品をにじませている。なぜなのだろう、そんなことを何日も考えていたある日、私はこの絣柄が庶民のものではないことを知った。
この布を織った者は、おそらくこの布を着る立場の者ではないであろう、とはじめに思ったのは、経も緯もともに真綿からの手紡ぎの糸という、ぜいたくゆえの想像であったが、この献納布には、何よりもその絣柄にきびしい階級があったのである。おそらく、今日に好んで織り残された柄は王室御用のものや、高官の料とされた図柄であったにちがいない。いかにも抒情的な、この絣柄を引き立てるべく、心意気の帯を結ぼう。久米島紬の絣模様には、どこか臈長けた品位がある。
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美術公論社発行 |
【米琉】
米沢に琉球絣の手法が導入されたのはいつ頃であろう。米沢藩の中興の祖上杉鷹山が、藩政の立て直しのため、養蚕を奨励し、織物産業の振興に尽力した話はあまりにも有名だが、私はこの話を小学校の修身の教科書で教えられたのがなぜか記憶に残っている。
藩命によって選ばれた女たちは、織物の技術を修得することに、かなり悲壮な使命感をけなげに抱きつつ励んだにちがいない。その頃はまだ、単純な織りしか産出できなかったであろうが、いま手にしているこの米沢琉球の、丹念な織りのうるわしさの中にも、その日々のけなげに誇り高かった女の質朴な志は深くしみとおっているようだ。
子供の日に教室で教えられた趣旨は何一つ覚えてもいないのに、北国の女たちの、織り物へのつましく熱い情熱と、倹約な、質素な日常の中に育まれた、大切な糸への思いの優しさは、いま一枚の布の手わざをとおして一度によみがえってくるように思われる。
私は、糸太な紬織りの布が、底深いしずかな絹のつやを、おだやかな秋の日差しの中にほのぼのと浮かび上がらせるのを賞でながら、この地味な鳶色をその国産の紬に定着させた米沢藩の気風や、小城下町であった長井市の町並みを思い浮かべる。
先日来の米沢紬フィーバーですが、つまりあれは所謂「米琉」という織物に属するものだとようやく気がついたわたくし。南から北へ旅して生まれたこの織物ですが、箪笥にぜひとも加えたい。しかし、この時期、キモノ世界では秋冬ものまっしぐらな時期。松屋銀座では壱の蔵の市、与那国星布展もある、鎌倉のその店の支店にもいってみたい。まずは見て、見て、見て、目を鍛えて。本当は、10万くらいのちっちゃい絵もほしいところなんだけどね。
2004.09.09
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