今、空前の着物ブームなんだそうだ。
あ、私個人のことではなく、ファッション業界的に。
スローライフだのそういった思考のトレンドと、和の心とかいったものが合致したものの上にのっかりつつ、人と同じものは着たくないわという娘っこたちがあざやかな柄の銘仙を着るようになり、「あんな若い娘たちが?」「お茶やお花を習っているわけでもなく?」と人の目に留まるようになる。どうやら着物が流行っているらしいと囁かれ、新聞の記事にもなる。着心地のいい絹をまとうことが癒しともなっているとそれらしい人がそれらしく評論する。
まぁ、そういうこともあるでしょう、あるのでしょうがっ!
スローライフといういんちきくさい言葉もどうかと思うし、「和の心」といちいち仰々しく言葉にするのもうさんくさい。だいいち「和の心」を標榜する着物のリフォームの本には、「なんてもったいないことをするの?」「なんであんな素敵な布を、そんな変なものに変えちゃうの?」というリフォームっぷりがめじろ押し。先人が聞いたらひっくりかえるような悪趣味なリフォーム・・・どうしてあれが本になるのかとても不思議。
私は、「ことさらに構えたもの」「作為的にあみ出された言葉」というものが大変苦手なので、上に並べたようなものも「ケッ、貧乏くせぇ、貧乏がうつっちまう」としか感想を抱きません。そんなあたいがめざす着物姿とは!
樋口可南子さんの美しさ(すみません、言うだけならただなので・・)とサザエさんの普通さ。
樋口可南子さんについては財力も骨格も暮らしぶりも違う人だけど、とりあえずその美しい着物姿について学びたい。
大事なのは「普通である」サザエさん。
人生の大事なことのほとんどはサザエさんから教わった私ですが、まさか着物の姿まで学ぶとは思いませんでした。
フクニチ、朝日新聞で連載されていたサザエさんは、姉妹社さんから70巻近くに渡って出版されている。小学校低学年の頃、母親がまず「よりぬきサザエさん」を買ってきた。当時私の家にある漫画といえばそれだけだったので、穴があくまで読んだ。昭和の風俗や事件、政治、公害、ものすごいスピードで変わっていった日本というものを、サザエさんから教わった。
その後、よりぬいてない「サザエさん」を母が何冊か買ってきた。1巻〜15巻までの一揃え、30〜35巻、最終回が含まれる最後の5巻。よりぬいてないだけあって、子どもの頃はわからなかったオチのものがいくつかあるが、今読み返せば、ははんなるほど、とうなずけるようになる。また、和服から洋服へと着るものがかわる時代を楽しんだ女の風俗史をそこに見ることができる。ものがないので自分でなんでも作った時代、よく縫い物の話もでてくる。布地のバーゲン会場で戦うサザエさん。ワカメちゃんのためにワンピースを縫おうとするのだが、欲張って自分のワンピースの型を取ったらワカメちゃんの分がなくなってしまい途方に暮れるサザエさん。
たとえば、1コマ目、夜も遅い時間必死に浴衣を縫うサザエさん、2コマ目、もう遅いんだからいい加減にしなさいとフネさんに声をかけられる、3コマ目、真夜中ようやく縫い上がり喜ぶサザエさん、4コマ目、トイレに起きたフネさんは、鏡の前でポーズをとるサザエさんを見てぎゃふんとする。(ちなみにここまで全部記憶だけで書いてます)。
見よ! この「普通っぷり」を!
普通に、至極普通に、針を持つ生活があり、布を選ぶ楽しみがあり、縫い上がるまでの忍耐の時間があり、掃除をするときも炊事をするときも、それはすべて、和洋問わず、穏やかに、布に包まれているその暮らしを! そして、フネさんからサザエさんに、サザエさんからワカメちゃんに引き継がれる着物たち。あったりまえの日本の庶民の生活。なんでもかんでも買物で済ませることのない、普通の暮らし。美しいことだと思う。
和だのスローライフだの、時代の都合が悪くなったためあわてて作られた言葉なんかどこ吹く風に、あたしゃ自分のペースであたしの着物道を歩いていきたいものです。(えぇーっ、あのペースでっ????)
ここまで書いていて思ったけど、私のまわりの男性がよくいう「ヒーロー・手塚治虫大先生」というのは、私にとっては「師匠・長谷川町子」なのね。あぁー、自分で自分に合点がいったよ。
参考資料:長谷川町子年譜と作品
2003.06.14
後日談:でもね、2年着物着てみたけど、やっぱりサザエさんがいいなぁ、と思いましたよ。毎日毎日着物を着る舟さんのように、日常と晴れの日をきちんとわけて、それ相当の着こなしができる良識と節度のある女性でありたいと思ってます。2005.2.5
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