それは、10月の沖縄本島「琉球布紀行をおっかけろ!」ツアーの帰りの空港でのお話。お土産の泡盛の入った袋と機内で飲むためのビールが入った袋をぶら下げて搭乗ゲートに向かうとき、すでに泥酔モードのゑり華の社長にこういったのさ。
「社長さぁ、あたし、与那国に行きたいんですけど」
「花織ですか?」
「できれば、目が読谷山花織や首里花織を覚えているうちに、間髪いれずに」
そのときは、牧志の公設市場でぽんすか空けた2本の泡盛(ほかにもメンバーはいましたから!)に酔った勢いの話で済んだのだけど、なにかの時にお店に顔を出したとき、社長がきらきらした目で話かけてきた。
「与那国いきましょうか! 織手さんところもご案内できそうですよ!」
「いつですか?」
「12月の頭に」
「マジー?」
「マジ!」
と、ざっくりと与那国行きが決まった。さて、その話が決まってから特にお互い旅程を詳しく決めるわけでもなく放置しておいたのだけど、あの離島までふらっと行けるはずもなく、出発日の10日前にHISであわてて予約し、なんとか出発の日を迎えたわけです。1日目は与那国島、2日目は石垣島、3日目は竹富島という黄金の織物離島ツアー。見るもの満載の旅程に胸が高まる。
さて、ここで与那国花織についてちょっとお話を。
2004年9月、東京は銀座メルサ5階の東京セントラル美術館で「与那国星布展」という展示が開催されました。これは、かの地で織られた与那国花織の織物が一堂に会した展示で、暗い照明の中に単衣向きの百数枚の織物たちがしゃきんと壁からかけられていた。パンフレットに使われたのは、島の東端にある軍艦岩の雄雄しい写真。島にまつわる人べらしのための悲しい史跡「久部良ばり」や「人升田」の写真が、説明の文章とともに飾られている。晴れた日には台湾が見えるという日本最西端の絶海の孤島、自給自足でやっていかなければいけない土地、密貿易時代に栄えたとはいえ、それでも外洋の波は何人もの命を飲んだことだろう。そして島津藩が課す重い人頭税・・・この展示では、その織物の心躍るような軽やかさや色の楽しさよりも、その説明のほうが印象的で、与那国というのはなんて土地なのだと思ったものでした。
たまたまそこに、今ほど仲良くなかった(失礼!)ゑり華の社長がいて、「内地から移住して織り手となった女性がたくさんいると聞いてますよ」と話してくれた。「その絶海の孤島に、内地から、織手となる女性が、わざわざ移住してまで?」と一言一言区切りながら正直に聞き返したような気がする。
与那国は地糸による浮き織りで、読谷のように花糸を使わない織り。裏に糸が浮いてでてこない裏表のない織物。首里織により近いのだけど、さらにひとつ軽いような感じがする、単衣の時期に纏いたい一枚。
現地で現在織られている織物を見てきたから言えるのだけど、あの展示は、古典的な花の組み合わせを濃い色で出している織物と、今までにないモダンな花の明るくさわやかな色使いの織物が交じり合っていたような気がする。当時の展示で目にとまったのは、やはり、そのモダンなものだった。ただ、あの展示はずいぶんと暗い落ち着いた照明が使われていたから、目が勝手に色変換していたかもしれない。
とまれ、私が与那国織を真剣に見たのはそのときが初めてで、「一体、どうやってその苛烈だといわれる土地に、わざわざ内地から女性が移住してまで織り手になるのか」ということが頭の中でひっかかっており、与那国島とはどんな土地なのか、この目で確かめたくなった。いろいろな土地に勢いづけて旅してますが、そこの織物がほしいという野望もないでもないけれど、どちらかというと、その織られている土地を見たくて飛行機に乗っているのだと思う。
島の女のロックってヤツをこの目で確かめたいのです。
2005.12.6